元メッセンジャーの南 秀治さんによる連載「メッセンジャー狂時代」の最終回を公開しました。
読んでいて、当時の危うい空気感をありありと思い出しました。

僕がメッセンジャーをやっていたのは、2003~2006年頃。
当時はちゃんとした新人研修なぞ準備されておらず、手取り足取り教えるというよりは、「無線機付けてやっから街に出て脚で覚えろ」的な雰囲気。
しかも仕事自体はめちゃめちゃハード。事故も多かったし、冬の雨はまさに地獄でした。

なので、新入りは1週間で8割くらいが辞めていきました。いきなり連絡が取れなくなる奴。「僕にはもうできません」と泣きながら土下座する奴。「ウチの子になんてことさせるんですか」と親に電話させる奴。今から思えばだいぶ問題のある職場ですが(笑)、それだけに残ってる奴は精鋭でした。自分で言うのもなんですけど。だから、メッセンジャー達は全員カッコよかったんです。

SINOさんのこともはっきりと覚えてます。
僕が始めた頃には彼はすでにカリスマ的な存在で、記事にも登場するアーレーキャットという(非合法)レースで、なんとか付いていこうとSINOさんの後を必死に追いかけたりもしました。
でもSINOさん、(あまり大きな声では言えませんが)クルマがガンガン走ってる交差点の前にくると、三連勝の上でちょっと身じろぎをした(固定ギヤなのでバックを踏んだ瞬間です)かと思うと、フッと消えちまうんです。

「どこ行った……?」と思ってると、交差点の向こう側にフッと表れて、そのまま闇の彼方へ――。当然僕らはフルブレーキです。もうさっぱり意味が分かりませんでしたし、レベルが違いすぎて勝負しようとすら思いませんでした。あれは「ボールが止まって見える」的な世界だったんだと思います。

そういえば、男子と女子が同じ人数集まって楽しく会話したり連絡先を交換したりする飲み会で、SINOさんと一緒になったことがあります。「Cy-Q(僕が所属していた会社です)で走ってます」とおそるおそる声をかけると、「ヘンミ君がいるところか。じゃあどこかで何度かすれ違ってるね。改めてよろしく」とニカッと笑ってくれたのでした。ルックスがいいだけでなく、信じられないほど速いだけでなく、彼はナイスガイでもありました。
可愛いOLが何人も参加していたことより、SINOさんと同席していることに緊張して、その飲み会で何をしゃべったのか全然覚えてません(笑)。

南さんが記事でも触れてくれてますが、リーマンショックを境に、日本のメッセンジャー業界は大きく変わりました。それがよかったのか、悪かったのか、僕には判断できません。でもただ一つ言えることは、もうあの頃のような時代は二度と戻ってこないということ。

あれから色んなことが起きて、社会の中での自転車の立ち位置は変わりました。ブラック寄りのグレーゾーンで生きていた当時のメッセンジャーのような存在を、時代はもう許すことはないでしょう(そもそも、ドラレコが当たり前の現在では、当時僕らがやってたような走りは一発アウトです)。

そんなふうにメッセンジャーの世界が大きく変わってしまう直前に、僕はメッセンジャーの世界から離れ、自転車メディアの編集部員に転職しました。
メッセンジャーを辞めた26歳のあのとき、自分からそう望んだにもかかわらず、寂しくてたまりませんでした。こんな魅力的な仕事をやめていいのか。最低だけど最高な仲間たちと離れていいのか。こんなむちゃくちゃで熱い生活はもう二度と送れないのではないか。本気で「メッセンジャーと編集者を両立できないか」なんて考えたこともありました(絶対無理なんですけど)。

最後の配送は今でも覚えてます。汐留のテレビ局から元赤坂への便。届け先の人が「速かったね、ありがとう」と言ってくれました。ビルから出て、夜空からひらひらと舞う雪を見ながら深呼吸をすると、涙で視界がぐにゃりと歪みました。

その日の夜、田舎の母に電話で「配送は今日で最後だったよ」と伝えると、「君が好きな仕事だから今まで言わなかったけど、毎日心配で生きた心地がしなかった」と言われました。

4年間しか走りませんでしたが、あんな時代にメッセンジャーを経験できて、幸せだったと思っています。あの4年間は、僕の宝物です。

(安井行生)