世界のトップカテゴリーを別府史之選手と共に走ってきた新城幸也選手(バーレーン・ヴィクトリアス)。同世代のプロロードレーサーとして、日本人として別府さんの引退は彼の目にどう映ったのか。「僕たちが見た、別府史之」の冒頭では、新城幸也選手へのミニインタビューをお届けする。

ライバルというより、友達

2016年のブエルタ・ア・エスパーニャ第9ステージ、スタート前の一コマ。フォトグラファーの辻 啓さんが差し入れた自動車雑誌を手に談笑する2人。(photo KEI TSUJI)

――別府さんと初めて会ったのは?

新城:たぶん2004年の沖縄合宿だと思います。僕がエスポワール(ブリヂストン・アンカー・エスポワール=ブリヂストン・アンカーの育成チーム)のとき。別府さんはそのときラポム・マルセイユ(フランスのトップアマチュアチーム。別府さんは当時ブリヂストン・アンカーに籍を置きながら、欧州経験を積むためにヴェロクラブ・ラポム・マルセイユに派遣されていた)で、フランスで走ってたんです。でも、別のチームだったので宿に戻ったときに顔を合わせたくらいで、ほとんど話をしなかったと思います。一つ覚えてるのは、別府さんが釣竿を持ってきてたこと(笑)。トレーニングの後に釣りに行ってたんじゃないかな。

――選手として別府さんを意識したのはいつですか?

新城:広島の全日本選手権(2006年)。別府さんが勝ったときですね。そのとき別府さんはすでにベビー・ジロ(ジロ・デ・イタリアのアマチュア版)で結果を出していたし、ディスカバリー・チャンネルで走っていたので強いことは知ってましたが、それがどのくらいのレベルなのか分からなかったんです。僕はそのときもっと下のレベルで走っていたので、想像がつかない。で、初めて別府さんの走りを目の当たりにしたのが広島の全日本でした。僕はそのときアンダーでエリートに出させてもらえなかったんですが、別府さんは独走でとにかく強かったので、印象に強く残ってます。

――トップカテゴリーで走る日本人として比較されることも多かったのでは?

新城:日本人として意識することはなかったですね。同じ集団内にいたら、20歳だろうが40歳だろうが、国籍がどこだろうが、お互いに信頼してリスペクトしながら走るのがプロなので。だから皆さんが想像されるほどライバルという感じではありませんでした。それに、別府さんとはそんなに一緒に走ってないんです。もちろん、ジロとツールとブエルタ、3つのグランツールを一緒に走りましたが、それぞれのチームでそれぞれの役割が課せられているので、話す時間もほとんどない。でも、たまたまグルペットで一緒になったとき、日本語でしゃべれるというのはいい気分転換になりましたね。「今日のステージ大変だったなぁ」って。

――新城さんにとって、別府さんはどういう存在?

新城:世界選手権とかアジア選手権で、同じチームで走るのがいつも楽しみでした。だからライバルというより、友達、仲間。そういう存在です。

――引退を知ったときは?

新城:やっぱり……という感じでしたね。残念です。ここ2年、一緒にレースを走ってなかったので、もう1回一緒にレースを走りたかったです。大切な友達が集団を去るのは淋しいものです。

――最後に、別府さんにメッセージをお願いします。

新城:年に数回しか会えないからこそ、さいたまクリテとか世界選で会うと話が尽きませんでしたね。飲みに行って楽しい夜を過ごしたこともありますが、次に会ったときは選手時代の倍はしゃべりますよ(笑)。引退してもたぶん別府さんは、相変わらず飄々ひょうひょうと生きて行かれるんだと思います。これから何をされるのか、楽しみにしています。


 

パッションという言葉の意味

2008年、奈良で行われたアジア選手権。遠い昔で記憶が定かではありませんが、キツく寒い展開だったことだけ覚えてます。2人とも顔がパンパンです。

フミと初めて出会ったのはNIPPOの合宿を伊豆で行っていたとき。若くて体格も大きいのに、足がクルクル回っていて「足が3本以上ついてるんじゃないか?」って思うぐらいのスピードで走っているのが印象的でした。

「まだジュニアなんで、いつも全開で回してます!」

そのときのフミはこんなふうに話していたことを今でも覚えています。その後フミはフランスへと渡り、2004年にはヨーロッパのレースで何度も一桁に必ず入ってくる大物に。凄い選手へと成長したな〜って思いましたね。

一緒に走ったレースで印象的だったのは、2008年に奈良で行われたアジア選手権でした。序盤3周目からアタックしはじめたときには、「速っ!」ってびっくりしました。

いつものアジア選手権だと平坦が多くて運の要素も大きいのですが、何回も何回も攻める走りをしていたら、周りがどんどん消耗していって、完全に自分たちの勝ちパターンになりました。
あまりにもきつい展開だったので、表彰式では2人とも顔が浮腫みまくっていたのが良い思い出です。
その後も得意のタイムトライアルの力を活かして、プロの世界で仕事をする走りはフミらしい姿でしたし、みんなの憧れだったと思います。

フミがよく「パッション」という言葉を使います。

僕はヨーロッパへ行ったときもパッションと辞書だけ持って行ったし、レースで成績を出さないと先はないと思ってやってきた。フミは世界の第一線で潰れそうなくらいのプレッシャーの中で、自分を表現してチームに認められて……正直羨ましいな〜と思いました。
でも、羨ましがっていても何もはじまらない!
「自分には足りてない物をちゃんと持っているからできているんだ!」と、彼の走りをみて自分を奮い立たせて誰にも負けないパッションを持つこと、それを自転車にぶつけることを学びました。

「ヨーロッパに住んでやってる選手ってすごいですよね」ってフミが何気なく話してくれたことがありました。弱くてもヨーロッパで生きることって、物凄い経験をしているからだし、自分たちもあの頃はそうだったし……。今では家族もフランスにいてフランスでの生活自体が当たり前になってしまったけれど、そんな原点を見つめているフミとの話はとても楽しかった。
だから僕も、ヨーロッパへ挑戦する選手を育成したいと思って、ベルマーレで活動することにもつながってます。

話し続けたら終わらないので、このへんで。フミ、ありがとう。

宮澤崇史(ベルマーレサイクルロードチーム監督)

親愛なるアニキへ

2019年オーストラリア遠征中別府さんと再会した時のもの。日程があったので街角のカフェで茶をしばいた思い出。後からなんと新城選手も集合してくださり、3人で街のカフェでお茶したある意味奇跡の思い出。間違いなく二人は私にとって偉大なアニキ。

正直どう書き出したらよいか分からず、書き出すのに数日を要してしまいましたが、私にとってロード界で頼れる数少ないアニキ分だった偉大なる別府史之選手の、輝かしくも泥臭いプロキャリアでの功績を称えたいと思います。

正真正銘のプロフェッショナルだったと共に、自転車以外での別府さんの生き方は多彩というか面白く、何というかご自分の人生を旅する旅人というイメージの別府さん。

私が初めて出会ったのは、ジュニア時代に出場させてもらえた世界選手権(2004年ヴェローナ)。当時別府さんはアンダー最後の年でプロ入りをかけて走った世界選手権、誰よりもナーバスな雰囲気を出していた選手でもありました。私自身初めて行った世界という舞台でそのレベルの高さ雰囲気活気その全てに衝撃を覚えたものでしたが、一番の衝撃はほぼ初対面だった別府さんから言われた「ここで(世界選手権)で何がしたいの?」という問いかけでした。

世界選手権に来れてよかった、じゃなくて、世界選手権でどんな走りをして、どうなりたいのか。その時思ってもみなかったことを言われて、自分は世界選手権に来た客ではなくて、実走する選手なのだと気づいたのだと思います。それから始まり選手としてキャリアを進める毎、どこかしらでアドバイスを貰えた貴重な存在であったように思います。

先日、引退発表直後の別府さんに電話してみたところ開口一番「で、用件はなに?」と、相変わらず別府さんらしくて笑ってしまいました。

いつも通りの飾らない別府さんだけど、強い意志と柔軟な思想で人生を切り開いてきた別府さんの次の人生のチャプターも楽しみだと改めて思いエールを送ると共に、改めて私自身のこの先の人生もどうしてゆきたいか、改めて自分自身に問う別府さんとの会話でした。

自分は今自分の人生において何を考え、何がしたいのか、またどういう未来を想像しているのか。その問いは自転車を降りても何ら変わる事はない自分自身の人生への問いかけであると再確認。相変わらずのアニキだなとも再確認したのでした。

沢山の感謝と、これからの沢山の幸運を祈ると共に、これからの別府さんの未来に乾杯!

萩原麻由子(元プロロード選手)

兄としてできること

真ん中のオレンジ色のジャージがフミです。97年ミヤタカップ(群馬CSC)登録の部に中学2年生で出場。前年、中学1年生のときに中学生の部で優勝していたので、この年プロや実業団選手と同じレースに出場させてもらいました。ちなみに兄弟3人とも同じレースに出場しました。

私が高校生(弟のフミは中学生)のときに「フミはヨーロッパでプロになって、ツール・ド・フランスを走れる、いや走らないといけないんだ」と勝手に使命を感じ、そのためにできることは何かを考え、本人が不自由なく、選手活動ができるようにサポートしていこうと心に決めました。

おこがましいかもしれませんが、それが私の夢になっていました。もちろん、本人の努力なしには成り立ちませんし、それを成し遂げたフミは、本当に素晴らしく、誇りに思っています。

ここまで来ることができたのは、多くの人たちが力を貸してくれたからこそ。力添え頂いた一人一人に感謝を伝えたいです。ありがとうございました。

今だからこそ、語れるエピソードはたくさんありますが、それはまた別の機会にしたいと思います。

これからも兄弟3人、それぞれのアプローチで、サイクリング・ロードレースを盛り上げていければと思ってますので、引き続き応援よろしくお願いします。

別府 始(サイクリング・キュレーター)

ツール・ド・フランスは、終わらない

2009ツール・ド・フランス最終日に、最終周回まで逃げ続けた別府史之。©Pressports.com

2009ツール・ド・フランスは、1996年の今中大介以来となる日本人プロとして2人目、3人目の選手が同時出場して話題になったが、すべてが決着した最終日の夜、パリ・シャンゼリゼの一角で乾いた空気を楽しむように散策していたのが別府史之だった。

そのとき26歳。2つ年下の新城幸也とともに日本勢初のツール・ド・フランス完走という偉業。しかも別府は日本勢初の敢闘賞を最終日に獲得。日本自転車界の歴史を刻む快挙を遂げていた。その日の夜はチームメートと興奮状態で健闘をたたえ合ったはずだが、ようやく1人になってその感慨をかみしめるように歩いていた。

23日間の激闘を終えたアスリートの横顔はこれほどまでにすがすがしいのかと感じた。

「このままじゃ、もうボクのツール・ド・フランスは終わってしまう。そんな想いを胸に必死にペダルを踏み続けた」

別府はツール・ド・フランス最終日、大観衆で埋め尽くされたパリ・シャンゼリゼでアタックを決めた。8周回のうち7周半を逃げ続けた。

会場の実況担当ダニエル・マンジャスが残り1周の段階で、「今日のフミは驚異的な走りだ。このシャンゼリゼの、そして今年の最終ステージでの敢闘賞はフミに決まった!」とアナウンスしたとき、ボクが待機していた取材エリアの横に兄の始もいて、誇らしげな笑顔を浮かべていたと記憶している。

「ゴールライン手前のコンコルド広場に両親が来ていると分かっていたから、そこだけは常に先頭で走りましたよ」

フィニッシュ後の別府は、そんな笑いを誘うコメントも発してくれた。

敢闘賞はステージごとに果敢な走りをした選手を選出して与えられるもので、レース終了後の表彰式に登壇する。しかし最終日は23日間を通しての総合的な敢闘賞を表彰することになっていて、別府がツール・ド・フランスの表彰台に上ることはなかった。それでもシャンゼリゼの石畳の上で、赤いゼッケンをモチーフにした敢闘賞の楯を受け取っている。

大会序盤は、むしろ新城のほうが脚光を浴びた。最初の集団スタートレースとなる第2ステージで新城は区間5位になるなど着実な記録を残していく。ところが後半になって確かな走りを見せたのは別府のほうだ。

小さいころから憧れていたツール・ド・フランスで、いまある力を連日出し切ってゴールする。チームメートと共有する時間が楽しくてしかたない。長丁場の疲れは感じることもあっただろうが、この瞬間が一生続いてくれたらいいなと思ったという。それが冒頭の「もうボクのツール・ド・フランスは終わってしまう」という言葉に凝縮されていく。

そんな夢舞台を本人はしっかりとして言葉で締めくくった。

「ついにシャンゼリゼにたどり着くことができた。長いようで短い3週間だった。今回の大会を通じて、日本人の可能性を(新城)ユキヤとともに証明できたことはもう一つの成果だった。やっと本当のスタート地点に立った気がする。これからが自分の本当の勝負で、始まりだと思う」

その後の活躍はご存知のとおり。2011年には東日本大震災直後の岩手県で開催された全日本選手権ロードで、もう1人の優勝候補新城を制して2度目のナショナルチャンピオンのタイトルを獲得。

ボクは縁あってこのとき、新城側のパーソナル広報の任を受けて現地に居合わせたが、単騎ながら何度もアタックして数に優る実業団チームをことごとく引き離していく別府の強さに目を見張った。新城も日本チャンピオンになれるくらいに強かったはずだが、それをはるかにしのぐ強さを見せつけた。だから別府がトップフィニッシュしたときに、新城広報でありながら真のチャンピオンに祝福の拍手を送った。

「全日本を勝った選手が一番強い。でも一番強いからって全日本には勝てない」

ちょっと意味が裏腹のツイートをボクはSNSに書き込むのだが、すぐに別府が見つけて強く抗議された。全日本に勝ったすばらしい夜に不快な思いをさせてしまったことはいまでも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。後日直接顔を合わせたときに改めて贖罪の気持ちを伝えたが、寛容な笑顔を見せてくれたのがありがたかった。

トッププロとしての永い活動中は複数の困難な時期もあったはずだ。おつかれさまでした。そしてその経験値をもって次にどんな活躍を見せてくれるかに注目しています。

山口和幸(ジャーナリスト)

同い年の別府史之

新城幸也(1984年生まれ)、土井雪広(1983年生まれ)、別府史之(1983年生まれ)が揃った2010年の世界選手権。異論があるかもしれないけど、史上最強の日本代表チームだった。

一方的な感情なので失礼にあたるかもしれないけど、どこか彼に対抗心を抱いていたことは否めない。自分よりずっと先に世界の舞台で走り、第一線で戦う彼の姿を見て、自分もまずはフォトグラファーとして第一線まで上り詰めたいという気持ちがあった。そんな自分と同い年の別府史之が現役を退いた。

別府史之、土井雪広、そして増田成幸。すべて1983年生まれのロードレーサー/元ロードレーサーである。一つ年下には新城幸也がいる。ざっくりと、過去15年間の日本のロードレースを牽引してきたのがこの「花の83年&84年生まれ」だった。自分のフォトグラファーとしてのキャリアは彼らの活躍とともにあったと言っていい。

根っからのイタリアかぶれだったため、別府史之がステージ敢闘賞を獲得して日本人初の完走を果たした2009年のツール・ド・フランスの現場にはいなかった。それでも2011年、2012年、2014年、2015年のジロ・ディタリア完走、2016年のブエルタ・ア・エスパーニャ完走を近くで見届けることができた。毎日レース後に真面目なコメント取りをした後に、他愛のない(本当に他愛のない)会話をして、それが殺伐としたレース期間中の唯一リラックスできる時間だったと今振り返ると思う。

38歳はロードレース界で言うと大ベテラン。同年代の土井雪広は3年前に競技を離れ、東京五輪代表の増田成幸は2022年も走る。果たして別府史之はどうやってキャリアに終止符を打つのだろう、次に何を目指すのだろうと興味深く静観していた2021年、全日本選手権出場のために6月に帰国(延期されたため欠場)した別府史之は意気揚々と次のステップに向けて進んでいた。もちろんプロ選手としての過酷なトレーニングをこなしながら、セカンドキャリアの下準備を進めていた。何をするかは本人の口からの発表を待つとして、打ち込むべき対象を見つけ、そこに真っ直ぐ突き進む彼の姿を見て嬉しかった。

彼の「引退という言葉は使いたくない」というフレーズは格好つけた表現ではなく正しいものだと思う。確かに2022年UCIワールドチームの選手リストには彼の名前がないし、FTPも一般的な数値に落ち着いていくのだろうけど、これからもフランスの地に脚をつけながら自転車を愛し、彼にしかできないことを極めていく姿を見るのが今から楽しみ。そして対抗心はまだまだ健在で、負けたくない気持ちは強い。

最後に、ここ数年で勢いよく機材を揃え、写真撮影を楽しんでいる別府史之が「ロードレースを撮るフォトグラファーになる」とか言い出さなくて心底ホッとしているのはここだけの話で。

辻 啓(サイクルフォトグラファー)

ジャパンカップで抱いた憧れ

毎年レース中盤に組み込まれる最高難度のパヴェ区間アランベール。深い森を貫く2400mのまっすぐな石畳が貪欲な挑戦者たちを待ち受ける。

初めて別府選手に会った日のことをよく覚えている。2005年10月、自転車雑誌でアルバイトを始めたばかりの頃、興味本位で、“カメラマンの脚立持ち”という名目で、連れて行ってもらったジャパンカップでのことだ。自転車専門誌で働くとなったものの、当時の自分はレースのことなんて、まったくと言っていいほど知らなかった。知っている言葉といえば、ツール・ド・フランスとランス・アームストロング……その程度だった。けれど、別府選手については、その雑誌でコラム連載があったので知っていた。若くして世界のトップチームで活躍する日本のトップスター。レースが終わって帰ろうとしていたとき、一緒にいたライターさんが観戦に来ていた別府選手を見つけ、親しげに話を始めたので、思わず「ワア!」と心が高ぶった。

あの頃から17シーズンにわたり、別府選手は世界の第一線で活躍を続けてきた。自分も雑誌の仕事でプロのロードレースに関わることが増え、その世界にどんどんと魅了されていった。写真が好きで、何か写真に関わる仕事ができないかと思い、始めた自転車雑誌でのアルバイト。気がつけば、そこから飛び出し、世界のロードレースをカメラを持って追うことが仕事になり、世界各地のレースで別府選手の撮影や取材をする機会にも多く恵まれた。

とくに印象に残っているのが、写真の2009年のパリ〜ルーベ。4月12日開催のレース写真を20日発売の雑誌に載せるという、締め切りギリギリ、一発勝負のミッションを抱えての撮影だった。大きな不安を掲げながら、パリ北部のコンピエーニュで選手たちを見送り、高速道路を使って中盤以降のパヴェが連続する区間へと急いだ。200人ほどが出走するロードレースで、特定の選手の“良い”レース写真を撮影するというのは、決して簡単なことではない。1レースで数回しかチャンスのないクルマを使っての撮影では、地図上では数回の撮影チャンスが可能と判断できても、レース当日は観客のクルマや道路規制などで、うまく前に進める保証がない。選手にとっても一つのトラブルでレースが終わってしまう状況であり、パリ〜ルーベのような悪路では、いたる場所にリスクが伴う。そして、うまいことコースサイドに到達できたとしても、一瞬で通り過ぎる集団のなかから特定の選手の写真を上手に撮ることはできるのだろうか? このような状況下で自分は震える手でハンドルを握り、運を天に任せながら(日頃の悪い行いを反省しながら……)前へ進んでいった。

そして、この日最初の撮影ポイントでは良い写真が撮れなかった。あまりに集団が大きく、意図したような写真は撮れなかったのだ。早い段階で良い写真が撮れると一気に気が楽になるものだけど、逆の場合は当然どんどんと追い詰められていく。絶対に失敗は許されないという状況で、最難関として名高い森を貫くアランベールへの先回りになんとか成功した。不安と緊張が絶好調に達するなか、ファインダーの先に別府選手が飛び込んできた。ピントも問題なく「良し、撮れた‼︎」。本来ならば、無事に撮影できてホッと安堵するところではあるが、そのときファインダー越しに見た別府選手の表情にゾクッとした。全身全霊をかけて闘っている、と自分は感じた。でもそこには言葉では表現しきれない強い気持ちがあり、見る人によってさまざまな捉え方ができるような瞬間だった。そのときは、ありのままの別府選手の姿を捉え、受け取り手のイマジネーションを膨らませる力強い写真を日本に届けられることが何よりも嬉しかった。

その後、グランツールや世界選手権、国内大会など、多くのレースで取材を経験させてもらったが、このときの経験をはじめとして、別府選手といえば「北のクラシック」という印象がとにかく強い。本人から北のクラシックは「血と汗と肉を削って走る、人間が本来生まれ持つ“闘う”本能が試されるレース」という言葉を何度か聞いたことがある。石畳や急坂を越え、雨だけでなく、ときには雪が舞うような厳しいコンディションで開催されるベルギーやフランスでの伝統的なレース。どんなにつらくても、つらければつらいほどに、別府選手は苦しみながら精一杯に前を目指していた。その姿はある意味で“輝き”を帯び、いつも私たちを勇気づけてくれていた。

別府選手がトッププロとして走り続けてきた17シーズン。2005年のジャパンカップで抱いた「憧れ」は、仕事で関わるにつれて年々大きくなっていった。別府選手が持ち続けていた強い闘志や情熱を自分はどこまで伝えることができたのだろう? 少しでも伝えることができたなら、それは自分のキャリアにおける大きな財産だと感じる。別府選手が北のクラシックで見せてくれた数々の表情を、この先もしっかりと心に焼きつけていきたい。

田中苑子(フォトグラファー)

最も身近で、最も遠いところにいる選手

2007年、ドイツ・シュツットガルトのロード世界選手権を電車で観に行った。現地に着いた頃にはすっかりスタート前。その集中具合は声をかけるのも憚られるほどで、遠くから望遠レンズでその表情を撮るだけがこの時の接点だった。最も身近だけれど、最も遠いプロ選手だったと改めて思い返す。

僕にとって別府史之は、最も身近でありながら、最も遠いところにいる選手だった。そのプロのキャリアの始まりから終わりまでを見続けた、唯一のプロ選手でもあった。

その鮮烈なプロデビューのニュースを雑誌で見たときの衝撃は忘れられない。ちょうどその前年からツール・ド・フランスを観るようになっていた僕にとって、数歳しか変わらぬ若き日本人が、あのランス・アームストロングを擁するUSポスタル改めディスカバリーチャンネルに所属することを知ったときの、あの衝撃たるや。ちょうどその頃に、綾野真さん(現シクロワイアード編集長)のもとでアルバイトをしていた関係で、実兄の別府 始さんとの知己を得、幸運なことに別府史之本人と知り合うまでにそう時間はかからなかった。

果たしてフミさんはめちゃくちゃ気さくで、面倒見の良いお兄ちゃんのようであった。いま思い出すのは、2006年の春、ミラノ〜サンレモを観に電車でヨーロッパを旅したときのこと。フィリッポ・ポッツァートの勝利をローマ通りで見届けた後、ニースで一泊し、目的地のトゥールーズへ向かう道すがら、マルセイユで途中下車した。フミさんがせっかくヨーロッパに来るのなら、と駅で待ってくれていたのだ。次の電車が来るまでの間、3口で飲んでしまいそうな小さなカップのコーヒーをちびちびと飲みながら駅前のカフェで話をした。ツールに魅了されて以来憧れの地であったフランスで、自由闊達にフランス語を話し現地に溶け込むフミさんの姿は、一人の選手として以上にただ眩しく見えた。どんな会話をしたのかはよく覚えていないけれど、遠い異国での一瞬の邂逅は、若かりし頃の微笑ましい思い出である。

あれから15年。ずっとフミさんは第一線を走り続けてきた。本人の言葉にもあるように、ロードサイクリングのあり方が大きく変わった15年。激動の時代の生き字引が表舞台を去ることに、一抹の、いやそれ以上の寂しさを覚える。彼が残した功績の大きさは、この先もあらゆる場面で彼の名前が参照される度に思い出すことになるのだろう。だが僕はその輝かしい実績以上に、チャーミングで負けず嫌いな、ひとりの魅力的な男を折に触れて思い出す。戦い続けたその姿は、20歳の頃の僕にとっても、すっかりミドルエイジの仲間入りを果たした僕にとっても変わらず憧れのフミさんなのだ。

小俣雄風太(onyourmark編集長/レース実況者)

ロードレーサーの美

撮影後、雑談している僕ら。このとき何を話していたのかは定かではないが、茅ヶ崎の空と太陽がとても美しかったのは覚えている。(photo SHINO CHIKURA)

2021年6月某日。

別府史之さんのSNSで日本に帰国していることを知った僕は、「話を聞いてみたい」と瞬時に思った。テクノロジーの進化で、いつでもどこでも誰でも簡単につながれる便利な世の中になったが、なぜか別府さんにはこのとき直接会って話を聞くべきだと思った。同じ空間のなかにいるからこそ感じられる熱量を、世界の最前線で戦う人の言葉や想いを読者の皆さんに伝えたいと思った。その日には企画内容をまとめて小俣雄風太さんに連絡をとり、幾度かのやり取りを経て取材当日を迎えた。

僕が別府さんに会ったのは、このときの取材がはじめてだ。別府さんと小俣さんは旧知の仲ではあったが、会った瞬間からピリッとした空気が漂っていた。レースに出られないストレスと、全日本選手権が中止になったことによるフラストレーション(来日の目的のひとつが全日本選手権参戦だった)を感じながらインタビューはスタート。詳細はこちらの記事を読んでいただければと思うが、世界で活躍するロードレーサーのリアルを、飾ることなく別府さん自身の言葉で語ってくれた。

茅ヶ崎のカフェでインタビューを行い、海沿いに場所を移し、私服からジャージ姿に着替えてもらった。クシャっと少年のような笑顔を見せたかと思うと、時折、世界の最前線で戦うプロロードレーサーの表情になり、ひとたび自転車にまたがれば、スラリとした長身で自転車を操り、見ているこちらが思わずハッとしてしまう美しさが、別府さんにはあった。

「全日本選手権に出たかった。自分が自由に走れるレースだから」
「今の若い選手にそこまでの熱を持ってやれるだけのモチベーションがあるのか」
「勝ち取らないといけないポジションがある」

今でも別府さんがインタビュー時に発した、力強い言葉の数々を思い出す。

プロとして。ロードレーサーとして。世界と戦うとはどういうことなのか。おまえは本気で生きているのかーー。

僕は選手でもなんでもないが、別府さんの言葉を思い出すたびに奮い立たされる。それと同時に、あのとき別府さんに直接会って生の声を話を聞いておいてよかったと思った。

別府さん、その節はありがとうございました。次のステージがはじまったらまた話を聞かせてください。自転車業界の端っこから、別府さんのこれからを楽しみにしています。

栗山晃靖(La routeプロデューサー)

好きに走れ

我が家の古いHDDレコーダーに入っている別府さんの「情熱大陸」。数年ぶりに見たが、やっぱりちょっと涙腺が緩む。

先日、引っ越しをした。夫婦揃って物が多く、これはいい機会だと色んなものを捨てまくった。
もう何年も電源を入れてない古いHDDレコーダーも断捨離の餌食になりかけのだが、ふと思い出した。
ここにはあの番組が入ってるんだよな、と。

あの番組とは、2006年11月19日に放送された情熱大陸。
別府史之さんが取り上げられた回だ。
当時はまだ本格的なロードバイクブームが来る前。ロード選手がメジャーな人気番組に取り上げられるインパクトはかなりのもだった。

そのとき別府さんは23歳。所属していたのは、ランス・アームストロングがいたディスカバリーチャンネルだ。日本人が世界的なトップチームに加入し、情熱大陸で取り上げられる。それは、今よりもっと肩身の狭かった日本のロード乗りにとって、周りのみんなにちょっと自慢したくなるような、そんな出来事だった。

番組の中で、日本チャンピオンジャージを着て練習中の別府さんは、カメラに向かって弾けるような笑顔でこう叫ぶ。
「楽しいっす。マジで」
ハードな練習を終えたあともこう。
「いやー、楽しいな」

画面の中から、自転車で走ることの喜びが溢れ出していた。
もうこの人は本当に自転車で走ることが好きで好きでしょうがないんだと感じさせた。

しかし、トップチームがゆえに、好きに走ることは許されない。
番組の後半では、かつてホームステイをしていた老夫婦の「好きに走ればいい」という台詞が取り上げられる。

「たまには無線なんか外して、好きに走ればいいんだ」――。

好きに走りたいけど、プロとしての仕事がある。
その間で葛藤する別府さんの姿が描かれる。

「好きなように走る」というテーマは、「自由に走る」と言葉を変えて、このインタビュー記事でも触れられた。

番組はこんなナレーションで締められる。
「誰もいない一本道が別府に語りかける。好きに走っていいのだと」

僕は別府さんとはお会いしたことはないし、レースでの「好きに走る」とサイクリングにおける「好きに走る」とは根本的に意味が違うが、「好きに走る」ことが大好きな自転車乗りとして勝手にシンパシーを感じてしまっていた。

そうだよな。好きに走りたいよな。それが自転車ってもんだよな。
こんなことを言ったら怒られるかもしれないが、別府さんのその葛藤はどこか他人事とは思えないものであり、だからあの情熱大陸は、僕の心に何かを残したのだった。

フミさん。選手生活、お疲れ様でした。
あのとき、あなた僕らの誇りでした。
第二の自転車人生、好きに走ってください。
好きなときに、好きな道を、好きなバイクで、本能の赴くまま、思う存分、好きなように。

安井行生(La route編集長)

 

 

fumy

We’re wishing you the best of luck in the next step of your career.

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メカニック小畑 の言いたい放題(Vol.1) ロードバイクにディスクブレーキは必要か?

なるしまフレンドの名メカニックにして、国内最高峰のJプロツアーに参戦する小畑 郁さん。なるしまフレンドの店頭で、レース集団の中で、日本のスポーツバイクシーンを見続けてきた小畑さんは、今どんなことを考えているのか。小畑×安井の対談でお届けする連載企画「メカニック小畑の言いたい放題」。第1回のテーマはディスクロード。リムブレーキとの性能差、構造上の問題点などを、メカニック目線&選手目線で包み隠さずお伝えする。

2020.11.23

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異端か、正統か(SPECIALIZED AETHOS 評論/番外編)

設計や性能だけでなく、コンセプトや立ち姿も含めて、もう一歩スペシャライズドのエートスというバイクの存在意義に踏み込みたい。エートス評論企画番外編では、編集長の安井とマーケティングやブランディング方面にも一家言あるアドバイザーの吉本の対談をお届けする。

2020.10.30