2020年、アスリートとしてのキャリアに終止符を打った選手は少なくない。あらゆる五輪種目競技で行われた代表選考を経て、わずかに一握りの選手たちが栄誉を勝ち取った。日本人アスリートとして、母国開催の五輪に挑める現役選手でいることは時代に選ばれた幸運であるが、五輪に翻弄される不運もまた、そこにある。

萩原麻由子もまた、2020年にロードサイクリストとしてのキャリアを終えた1人だ。ジロ・ローザにおける日本人初のステージ優勝を筆頭に、アジア大会チャンピオン、5度の全日本選手権チャンピオン……本場ヨーロッパの第一線で結果を残し、日本の女子ロードレース界を牽引してきた第一人者は、そのキャリアと不釣り合いなほど静かに、自転車を降りた。

ヨーロッパを中心とした女子プロサイクリング界は、この数年で大きな変化を経験している。その変化の時期を、萩原はヨーロッパのトップ選手と伍して走り、壁にぶつかり、夢潰えて表舞台から去った。萩原のキャリアを振り返ると、極東の少女が欧州を夢見て、チャンピオンに上り詰め、欧州で認められるまでのサクセスストーリーと、病気とケガで棒に振ったまま取り返せなかった最後の数年間という挫折の物語のふたつがある。

萩原は「遺言として残せれば」とこのインタビューに答えてくれた。穏やかで控えめな物腰の萩原は決して自らの戦績を誇らしく威圧的に語るタイプではないが、戦いに敗れて表舞台から去ったことへの悔恨が滲むその応答には、ひとりのチャンピオンの飾らない生の声があった。

萩原麻由子が自転車と出合ったのは、高校生のとき。自転車同好会に置かれていたピストバイクに跨ったことから、全ては始まった。瞬く間にその未知の乗り物に魅了された萩原は、入会を決意し、前橋の老舗自転車店タキザワサイクルで自身のロードバイクを手に入れる。「お金のない高校生に対して、お店の人もなるべく安く組んでくれたのに、母は『もっと安くならないの?』と値切っていました」と萩原は苦笑いしながら述懐する。父は県庁職員。誰もスポーツバイクのことなど知らない家庭で彼女は育った。

恵まれた長身と長い手足は、自転車にうってつけだったのだろう。わずか2年でアジア選手権ジュニアカテゴリーのロードレースと個人タイムトライアルで勝利し、アジアの頂点に一足飛びでたどり着いてしまった。自転車に情熱的な先輩1人と、専門は書道で、自転車に詳しくないが面倒見の良い顧問1人という、女子校の小さな自転車同好会からチャンピオンが生まれたのだった。トラックレースがメインの高校自転車競技にあって、ロード用のチームジャージは「どうせ数回しか出場しないから」と手書きで『群馬 伊勢崎女子』のレタリングが施された。ビエンメの市販のジャージにマジックで所属が記されたそれは、後年プロ自転車選手となる萩原にとって人生最初のチームジャージである。

あの世界選で世界が壊された

アジアを制した萩原が次に見たのは、自転車競技の本場ヨーロッパだ。2004年、高校3年生の秋にイタリア・ヴェローナで開催された世界選手権。14.75kmのコースを5周回するロードレースで、世界の壁に阻まれた。このレースで勝ったのは、オランダのマリアンヌ・フォス。その後のキャリアで3度のエリート世界チャンピオン、オリンピック金メダリスト、5度のワールドカップ総合優勝を挙げた、歴史に名を残す名選手である。萩原はこの世界の高いレベルを体感したこと以上に、痛烈に印象に刻まれたことがある。

世界選手権を控えた日本ナショナルチームで、1人だけ異様な雰囲気を発している選手がいた。別府史之だ。この時21歳の別府にとって、U23の世界選手権はプロ入りがかかった重要なレース。すでにヨーロッパに拠点を置き、「勝ち上がり」でプロへの道を歩もうとしていた別府は、明らかに日本チームの中で浮いていた。1人だけ、勝つためにレースをイメージしていたのだった。

「別府さんに現地で会ったときに、『で、何がしたいの?』って聞かれて。こっちはいきなりの言葉に、えっ? と返す言葉もありませんでした。何がしたいって、何が? みたいな」

しかし萩原は、すぐに別府の問いの意味を理解した。別府はレースの中で何がしたいか、何ができるかを萩原に聞いていたのだった。萩原が持つポテンシャルが完走目的に止まらないことを見抜いての問いかけだったのかもしれないし、そうあって欲しいという願望もあったかもしれない。「別府さんは、レースをどう走るかを聞いてきたんです」

当の別府は、ホイールのトラブルに見舞われ29位に終わった。レースを終えた別府のホイールは、手で回すと止まってしまうほどフレていたという。重要なレースを落とし激昂する別府の姿もまた、萩原に「ヨーロッパで戦うこと」を強く意識づけた。別府はこの年の活躍が認められ、翌年ヨーロッパのトップシーンにディスカバリーチャンネルからプロデビューすることになる。

萩原は言う。「あの世界選で世界が壊されました。ヨーロッパで走りたい、そう思ったんです」

Mayuko Hagiwara

沖 美穂という先駆者

ヨーロッパで走ることを夢見る少女は、より走れる環境を求めて、自転車の名門校として頭角を現し始めていた鹿屋体育大学に進学。しかし生活の変化や学業との両立など、思うように環境に馴染めないまま1年目は過ぎていった。新しい環境に慣れるまで時間がかかることに、萩原はキャリアを通じて悩まされることになる。適応期間を経た大学2年生、いよいよその才能が開花する。ドーハで開催されたアジア大会のロードレースで優勝。名実ともにアジアでトップの選手となった。だが一方で、足元の全日本チャンピオンのタイトルを獲得できないまま年月が過ぎていった。

2000年代の日本の女子ロードレース界には、押しも押されもせぬ絶対女王、沖 美穂がいた。沖は2002年にフランスのチームと契約、日本人女性として初めてのヨーロッパプロとして活躍し、オランダの名門チームに在籍した2004年にはオーストラリアで開催されたワールドカップレースで3位入賞を果たしていた。世界の一線級と互角以上に走るその姿は萩原のロールモデルであり、憧れであった。国内をベースにする萩原と海外を転戦する沖とが直接対決する機会は多くなかったが、2006年のジャパンカップで萩原が沖を抑えて優勝したことは世代交代だと注目を浴びた。

しかし当の萩原には、沖に勝ったという実感はないという。「あのレースの沖さんは何か心ここにあらずで、ちゃんとレースで戦った気がしません」。萩原のその言葉通り、続く2007年、2008年と「合わせてきた」沖は全日本6連覇を達成し、引退を表明。萩原は、ついに日本の頂点に立つことなく大学を卒業することになる。

「全日本では沖さんには一度も勝ってないです。負けないまま、引退されたんです」

ヨーロッパで評価される走りを見せながら、全日本では確実に勝利する。そして負けることなく退いた。今にして思えば、確かに沖は萩原にとってのロールモデルだった。

女子ロードの第一人者として

2008年、沖が最後に勝利を挙げた全日本選手権で萩原は3位だった。この時2位に入った山島由香がサイクルベースあさひ社員としてレース活動を行っていた縁から、萩原はあさひに就職し、あさひレーシングのメンバーとして走ることになる。大学卒業時に競技を止める選択もちらついたが、ヨーロッパで走りたいという夢はまだそこにあった。日本の頂点も未達のままだ。チームは2012年のロンドンオリンピックにいくための女子チームとして整備された。しかし2009年の初頭、山島が白血病を発症し闘病生活に入る。沖のいない2009年の全日本選手権。萩原にとって勝たねばならぬレースだったが、10位と惨敗した。一方の個人タイムトライアルでは2連覇。力はあるが、新天地の1年目に結果が伴わない。

2010年は萩原が沖の後継者であることを証明する年となった。沖の引退後、UCIポイントを取れる選手がいなくなったことから、五輪出場国枠の確保が当面の課題となった。アジア選手権が最もUCIポイントを稼げるチャンスではあったが、スプリンター向けの平坦基調なコースが多く、クライマー/ルーラータイプの萩原にとって思うように走れないジレンマはあったものの、この年、とうとう全日本選手権ロードレースで初優勝を遂げる。ついに日本の頂点に立ったその翌週、チームメイトの山島が逝去。享年28歳。

自身のキャリアハイライトは? の問いに萩原は「2010年の全日本選手権」を挙げた。特別な想いのあったこの勝利から、萩原は日本の女子ロードの第一人者として歩み始める。2011年、2012年と全日本選手権を3連覇。チームの悲願であったロンドンオリンピック代表の座も勝ち取った。

五輪に敗れるも、夢への扉が開く

五輪代表になってなお、萩原は焦っていた。ここまでオリンピックを目指し走ってきたが、五輪代表とヨーロッパでプロになるという夢は地続きでないことに、萩原は気づいていた。ロンドン五輪ロードレース、萩原はDNFに終わる。この時勝利したのは、8年前萩原にヨーロッパの壁を見せつけたマリアンヌ・フォスだった。

2012年ロンドンオリンピック代表として初めて五輪を経験。しかしまだその先にヨーロッパは見えていなかった。

「オリンピックは全然走れませんでした。代表に決まったところで、強くなるためのプロセスが止まってしまった。このままじゃ選手として終わっちゃうと感じ、五輪後にベルギーのケルメス1ベルギー各地で開催されるローカルレース。クリテリウム形式で、シーズン中は日々開催されているためレース数をこなしやすい。を転戦するスケジュールを組みました。現地に詳しい豊岡英子さんに案内してもらったんです。たくさん走って、たくさん連絡先を渡して。でも契約はありませんでした」

「帰国後、あさひには来年もチームに残ると伝えていました。ただその9月に突然話が来たんです。来シーズン新設されるイギリスの女子チームからのオファーが」

2012年のロンドンオリンピックがイギリスにもたらした変化のひとつに、自転車熱の高まりがある。その年のツール・ド・フランスではブラッドリー・ウィギンスがイギリス人として初めて総合優勝を遂げ、オリンピックでは個人タイムトライアルで金メダルを獲得していた。イギリスに女子のエリートチーム創設の機運が高まっていた。チーム名はWiggle-Honda。自転車オンライン通販大手と自動車メーカーがスポンサーにつき、前年の世界チャンピオンであるジョルジア・ブロンジーニを擁する国際的なチームの一員として、萩原が抜擢された。いや厳密には、日本人に声がかかった。

「チームのGMのロシェル・ギルモアのビジネスプランは日本のホンダをスポンサーにするために、日本のチャンピオンを欲していたと聞きました。萩原麻由子という固有名詞に来た話じゃないんです。最初はヨーロッパホンダがスポンサーだったのですが、ゆくゆくは大元の日本のホンダを取り込みたいという思惑から日本人を入れておこうとなったみたいです。私からすれば、足掛かりは何でもよかった。年齢も25歳そこらで時間も無かったし、給料や待遇なんてなんでもいい、乗っかるしかないと返事をしました。あさひには不義理をする形になってしまいましたが、社長は怒りもせず、『個人的に応援するから』とおっしゃり外に出して下さりました。きっちりしていて、せせこましいところのない本当に良い会社でした」

萩原麻由子
萩原が着た歴代のチームジャージ。一番左から伊勢崎女子高校の手書きジャージ、サイクルベースあさひレーシング、Wiggle-Honda、Wiggle HIGH5、最後の2シーズンを過ごしたEneicat。中央の3着は、ナショナルチャンピオンジャージだ。

華々しくスタートしたWiggle-Hondaチームも、内側ではバタついていた。全てが新しく、オーガナイズされていない。渡欧直後には乗れる自転車が無く、最初に出場したのは石畳のクラシックレース。シクロクロスさながらの石畳と、それを苦にしない周りの選手たちに圧倒された。チームのミーティングではどんな話し合いがもたれたかがわからない。

「走れないし喋れない。最悪ですよ。輪に入れなくて結構しんどいこともありました。でもチームキャプテンのブロンジーニ、彼女はジャイアンみたいな人で口は悪いんですが『仲間に入れや』というスタンスだったことは幸運でした。彼女はすごく頭が良く、レース中に周りの動きを分析して、判断ができる。そして私にできる範囲の仕事の指示をするんです。私は世界チャンピオンを追うことはできないけれど、3流選手のアタックを潰すことはできる。そうやって彼女の指示を受けて走っていたら、うまくいくことが多かった。私だけでなく、チーム全体がです」

そうしてチーム内に自分の居場所を見つけながら走るうちに、萩原は徐々にヨーロッパのプロトンに適応していった。2013年はやはり『1年目のジンクス』で自身の成績を求むるべくもなかったが(全日本選手権の連覇も途絶えた)、2シーズン目、2014年には静かに変化が訪れていた。依然としてチームのアシスト役だったが、ジロ・ローザの山頂フィニッシュでステージ3位に入ったことで潮目が変わった。

ジロ・ローザは女性版ジロ・デ・イタリアで、女子ロードレース界で最も権威と栄誉のある10日間のステージレース。他に比類する期間と難易度のステージレースが無いことを考えると、その意義は男子のツールに匹敵すると言っても過言ではない。そのジロ・ローザでステージ3位に入ったことは、彼女がヨーロッパで通用するという何よりの証明であった。

それでも萩原は、あくまでアシスト選手としての自分をプロトンに位置付けていた。少し謙虚すぎるのではないか、と思えるほどに。

2015年ジロ・ローザ第6ステージ、歴史に残る勝利

「2014年の結果を受けて、チームと契約更新の話になりました。ブロンジーニからもいて欲しいと言われたんです。その頃チームは強い選手を集め始めていましたが、みんなが勝ちたい選手だとチームは機能しないんです。本気で自分を殺してチームのために働ける選手、そういう選手が圧倒的に不足していた。チームはそこに私の価値を見出してくれたし、私としてもそこにしか生き残る道はありません」

きっぱりとそう言い切る。でもその言葉に嘘がないことは、今後生涯に渡って萩原の人生とともに語られていくであろう、2015年のジロ・ローザにおけるステージ優勝のシーンを見れば明らかだ。

2015年のジロ・ローザ第6ステージ。序盤から山岳が出現するステージで逃げに乗った萩原は、強豪選手揃いのメイン集団に追いつかれてもなお、攻撃の手を緩めずに、残り25km地点で再びアタックで飛び出した。スタートから逃げていた選手とは思えない動きに、集団も虚をつかれ萩原を行かせてしまう。集団にチームのエースを残した萩原にとって、このままできる限り逃げ続けて他チームの選手たちに脚を使わせることができれば成功だ。

そして萩原は強かった。集団は追いきれなかった。

ゴールラインが目の前に見えても、萩原は決して振り返らなかった。出来る限り、後続の選手たちに脚を使わせようと、フィニッシュラインを切るその瞬間まで彼女は深いポジションで踏み込む脚を緩めなかった。ステージ優勝を目前にしてもなお、自分のためではなく、チームのために走っていることは一目瞭然。独走勝利にもかかわらず、ガッツポーズのないフィニッシュ。顔を覆うように小さく上げられた左手の下に、歓喜の表情を隠すようにして。勝利の瞬間を楽しむ時間すら惜しんでいた。

「ジロのステージ優勝は展開に恵まれたから。嬉しかった反面、運が味方した棚ぼたでもあります。レースの最終局面に追いついてきた選手たちの面子を見たら『やばい』と思いました。もちろん強い選手しかない。うちのチームはエースが2人入っていて、私も入れると3人。でも他のチームには4人いるところもある。そこが攻撃を仕掛け始めたら、全部私が1人で追わなきゃいけなくなるとすぐに想像つきました。それは嫌だなと(笑)。キツい場面で強力なアタックをする選手揃いだったので、絶対に先手を打つべきだと思ってアタックしました。すると誰も追いかけてこない。それまでのステージで、Wiggleは消極的なレースが続いていて、監督もかなり怒っていました。その日の朝、ブロンジーニがミーティングで『もう失うものもないんだし、思い切って行こう。迷う前に、行け』と。その言葉が頭に残っていたんです」

加入時には何を言っているかわからなかったミーティングの内容と、アシストとして仕事を全う出来る脚力。いずれもヨーロッパに来たばかりの萩原には無かった力を身につけて、彼女は栄冠を手にしたのだった。

GIRO ROSA_SONOKO TANAKA
日本のロードレース史上においてこの先も語り継がれる歴史的瞬間。ジロ・ローザという大舞台での勝利にも喜びは控えめ。(photo SONOKO TANAKA)

栄光に忍び寄る影

ジロ・ローザ後には、フランスのレースでもステージ優勝を挙げた。ヨーロッパで順調にステップアップしているかに見えた萩原のキャリアは、一方で酷使と負荷を積み重ねる、危ういものだった。

「2015年はよく走れたと思います。言われたことができるようになったし、若いリーダーが加入して、キャプテンのブロンジーニとバランスがとれ、チーム自体も一気に伸びた年でした。そんな中で、『いずれ自分も』という思いが芽生えてきたのは確かです。でも自分の役割は、アシストとして呼ばれたレースを常に全開で走ること。次のレースにいつ呼ばれるかなんてわかりません。自分のペースでスケジュールを組めない中で、7〜8月まで毎回全力で走っていると世界選手権までもちませんでした。そんな中でも、夏には次の年の契約をまとめて、滞在関係の手続きをして……とやることはたくさん。2015年はそんなシーズンでもあったんです」

「2016年にチーム内の役職がひとつ上がりました。それまでは序盤に飛び出すか、ライバルチームのアタックを封じる『鉄砲玉』でしたが、レースの中盤から後半の重要な場面を任されるようになったんです。でも、その大事な瞬間に仕事ができるコンディションに持っていけなかった。監督に『お前、明日行けるか?』と聞かれて、『いえ、今の調子では難しいです』と。取りこぼすレースが増え始めました。ここでさらに積み上げられれば、選手として理想とするところに上がれたと思いますが、取り戻せなかったですね」

何もかも順調に見えた2015年は、シーズン最後に鎖骨を折るアクシデントに見舞われた。ここから徐々に萩原の歯車が狂い始める。翌2016年の初頭に開催されるアジア選手権はリオオリンピックの出場枠がかかっていたため、無理を押して参戦。しかし3位と惨敗に終わりヨーロッパへ戻ると、オリンピックイヤーのプロトンには春先から異様な雰囲気が漂っていたという。

「シーズン序盤なのに、みんな尋常じゃなく仕上がっていました。オリンピックは世界選手権の半分の出場枠しかないので、みんな代表に選ばれるように個人の成績を狙って走ろうとするんです。チーム内にはいろんな国の選手がいるから、いろんな思惑が混ざり合う。泣きながらチームの仕事をしたくないと本音を露呈する選手もいたくらいです。私もそんな中で例年以上焦りを感じ、また出場国枠が確定できていなかったことを危惧し、一つでも多く機会を得ようと、遠征と遠征をつなぐような無理なスケジュールを組んでしまいました。ドイツからオランダ、ロンドン、そのまま中国に行ってアメリカ、とか。家に帰らないでレースや遠征を連続させることも。無茶をしすぎましたね」

ヨーロッパのレースでも思うような結果が出せず、2016年のリオオリンピック代表の座も逃すことになる。絶好調のシーズンの翌年に訪れたスランプ。無理を重ねた身体は、ぎりぎりの状態まで擦り減っていた。

苦難のラスト3シーズン

時に壁にぶつかりながらも、あきらめない意志の力と克己心で乗り越えてきた萩原にとって、2017年から2020年の3年間は苦しいシーズンとなった。本人が「晩年」と呼ぶキャリアの最終盤のストーリーは、その前半分の華々しさゆえにコントラストが際立つ。しかし、苦しみの中で彼女が見た風景もまた、その功績と同様に語り継がれるべきだろう。

長らく脱せないでいる不調が、伝染性単核球症によるものだと発覚したのは2016年の終わりのことだった。

「取りつく島のない状態でした。カヴェンディッシュやキッテル、チャベスも陥った免疫系の疾患です。運動強度が上がるたびに倦怠感や頭痛、風邪のような症状が起きる。対処法が特に見出されていなくて、安静にするしか方法がない。2016年に判明し、安静ののち2017年1月のオーストラリアのレースで3位に入り、手応えを感じつつヨーロッパに戻ったら風邪を引いて。そんなことが連続した4月末に、検査で疾患の原因となるEBウイルス陽性がまた出ました。それからは運動強度が上がるとひょんな時に発症する。でも再現性がなく、大丈夫な時もある。焦るとまたぶり返すから、と無期限休養にしたんですが、今度はいつ治ったかの判断がつかない。追い込んだトレーニングをしたらまた発症するんじゃないかとか、気持ちの問題なのかな? とか考え出して悪循環に陥りました。レースの出場機会が減り、周囲の信用も失いました」

2017年シーズンを棒に振り、2018年には新チームAle Cipolliniに移籍したが、状況は好転しなかった。

「基礎体力が落ちていて、このシーズンはつまらない落車を何度もしました。周りが余裕あるのに、自分だけ見えてなくて転ぶんです。カヴェンディッシュも復帰後に変な落車を繰り返していましたが、すごくよくわかります」

9月にはイタリアで練習中に交通事故に見舞われた。腰椎の粉砕骨折という重症だったが、それでも現役続行にこだわり、スペインの新チームEneicatへの移籍を決断。満身創痍でも走り続ける理由には、東京五輪があった。

「最後の祈りのようでした。スペインのチームを選んだのは、五輪選考レースがスペインであったから。もはやワールドツアーチームに所属はできないし、地元のワイルドカードで出場できるチームで望みをつなごうと」

当初は2020年の5月末まで設定された代表選考期間だったが、新型コロナウイルスによりレースカレンダーが変更になったことで、萩原の狙うスペインのレースは7月末にずれ込んだ。そしてこのレースの最中に、萩原は自転車を降りる決断をした。

「このレースで、集団についていけなくなった時に何も感じなかったんです。今まではどんなに調子が悪くても、白旗を上げることは無かったのですが、この時ばかりは何にも感じなかった。自分でも『えっ』て思うくらい抵抗する気持ちがなかったんです。もう終わりだなと。人間、一生は戦えないので、誰でも引退する時はやってきます」

Mayuko Hagiwara

人生は後戻りできなくてよかった

実力主義の世界で勝負してきた人の言葉は、取り繕うところがなく率直だ。だが決して望んだ形でないことは言葉の節々に滲んでいる。

「もっと高いところに行きたかったというのはあります。反省の塊ですよ。あの時これをすればよかったという分岐点は何個かありますが、でもその選択をしたのは自分なので納得はできています。『人生は後戻りできなくてよかった』と思っています。もし戻せたら戻し続けてしまってキリがないじゃないですか」

萩原が反省という言葉を使う裏側には、日本人選手がヨーロッパを拠点に戦うことの厳しい現実が見え隠れする。ヨーロッパの最初の数年は、プロと言えば聞こえはいいが、生活できるレベルの待遇を得ていたわけではなかったという。チームに期待される仕事を全うするために、選手が個人でやらなければならないことは山積していた。トレーニング環境の選定、トレーナーの確保、住居の確保、ビザのオーガナイズ、全日本選手権を含む日本での活動環境の確保……萩原の場合、実力で待遇を得られる段階に至って疾患に冒されたことは不運だったとしか言いようがない。

萩原のキャリア終盤、経済的に彼女を支えたのは福井県の東京五輪を目指すアスリート支援プログラムだった。病気でレースに出られない間も、交通事故での大怪我の後も、困難を極める時期にあっても走り続けられたのはこの絶大なサポート体制があったからだと萩原は感謝する。海外拠点の選手にとって、全日本選手のような日本国内のレースに出場するためには準備やロジスティックを一から構築せねばならず、走るだけでも大きな負担を強いられる。そうした競技環境を支えてくれた福井県に対し、目標であった五輪代表を叶えられず現役を退くことに、萩原は大きな悔いと取り返しのつかない反省を感じている。彼女にとってこの数ヶ月は、自転車を通じて、どうにか自分が社会に返せるものはないかを模索した時期だという。

新しい世代に、伝えること。それがいま萩原が見出した生きる道筋だ。

2013年から2020年。萩原が西欧で活動したこの数年間は、女子プロロードレースのあり方が大きく改善した数年間だった。賞金額の男女平等や、レースの国際的なライブ放送、選手倫理の規程など、トップ選手の権利は守られるようになってきた。この先、ヨーロッパでプロ選手になりたいと若い日本人選手が夢を持つかもしれない。そんな時に、自ら道を切り開いてきた萩原の言葉は進むべき方向性を示す指針になるのではないか。

しかし萩原は、無責任に夢を語ることはしない。

「選手に何にも未来を示さずにヨーロッパに行かせることは、罪なことではないかと思うんです。中途半端にロードレースの本場である欧州行きを勧めるのは良くないと思います。いくら環境が整備されてきたとはいえ、まだ沢山の課題が多く残るのが女子プロトンの現状です。特に我々のような欧州外の外国人選手にとってはなおのこと、難題が山積みになっています。それよりも、日本に走る場所や強化、競技を行える環境を作ることが先決です。女子のUCIレースは日本にありませんから。国内のレースがあっても、その後さらにステップアップできるような場所が無い。正確に言うと、国際規格の競技会が日本に存在しない。ヨーロッパの選手たちは、10代、20代のうちにやっておくべきことを着々とこなしている。それは引退後のキャリア形成も含めても言えることです。そうした環境や教育がない中で、憧れだけでヨーロッパに行っても、夢が潰れた時にどうするんだという問題がある。生き残るのは厳しい世界です」

偽りのない、取り繕うことのない、その世界を知っているからこその厳しい言葉だ。しかし同時に、地元の群馬で小学生の自転車教室のサポート活動も始めている。

「自転車は、鍛えてくれて、学びをくれて、楽しみをくれるツールです。それがその子の居場所になるかもしれない。才能がある子をさらに速くすることより、自分に自信を持てない子に、大丈夫だからあきらめないで乗ろうと伝えたいですね。私みたいに、エリートでもなんでもない、できないことの多い人間でもできたことはあるから。自転車が自分を引き上げてくれたんだよって」

ロードレースは人生の道場

部員2名と顧問1名。群馬の女子校の小さな自転車同好会から始まった萩原の旅は、再びこの地へと帰り着いた。高校時代の練習は、遠出が危険という理由から、ひたすらに近所の赤城神社への上りを繰り返すものだった。インタビューの終わりに、この道を歩いてみた。2kmに満たないこの道が、ジロ・ローザのフィニッシュラインに繋がっていることを、誰が予想しただろう。

萩原はこの春から一般職に就き、職業としての自転車からは身を引く。新しいチャレンジに、今は燃えているところだ。日本社会でやるべきことができるようになったら、また自転車で自分のできることを探したいという。挑戦こそが彼女を動かす原動力なのであった。萩原にとって、自転車とは、ロードレースとは何だったのだろうか?

「ロードレースは『人生の道場』。いろんなことを教えてもらった場所であり、自分の居場所だったなと」

道場は己を鍛錬する場であり、他者に継承する場でもある。萩原麻由子の歩んできた道がどこへと続いていくかは、まだわからない。

赤城神社

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