2009年の夏のある深夜を思い出す。日本海側の片田舎で大学院生をしていた僕は、深夜の院生室で研究そっちのけで机上のラップトップPCに釘付けになっていた。そこには今まさに、ツール・ド・フランス最終ステージのパリ・シャンゼリゼで果敢に逃げる別府史之の姿があった。

その1年前、2008年のツールで僕は全ステージを取材して回ったが(正確には、綾野真・現シクロワイアード編集長の取材にくっついていっただけだが)、最終日パリにたどり着いた時に達成感を覚えてしまい、自転車レースの取材者であることにひと区切りつけたのだった。なのに、その翌年に日本人選手が2人も出場し、しかも「フミさん」がシャンゼリゼ大通りでこうして大逃げを打っている。なぜ、自分は現地でその走りを見ていないのだろう? 心の奥に悔恨を覚えた。

それから10年後の2019年、相変わらずヨーロッパプロとして活躍を続ける別府史之が、全日本選手権に出場するため帰国した。並々ならぬ気合いと決意に満ちた彼の全日本選手権に密着し、その一部始終をレポートしたのは、どこかであの2009年の悔しさを晴らしたかったかもしれない。「最後の全日本選手権」と題した記事は、多いに読まれた。

僕がロードレースを観始めた2000年代初頭に、大きな驚きをもってトップチームとの契約が報じられたフミさんは、年齢が少ししか離れていないこともあり、常に憧れと勝手な親しみをもっていた選手。彼のプロ17シーズンは、そのまま僕の欧州ロードレースを見てきた期間と重なる。21世紀以降の、変化著しいロードレースシーンを中から、通史でそれも日本語で語れる選手は彼しかいない。38歳、大ベテランの域に達したフミさんに、今まで聞きたかったことをざっくばらんに聞いてみた。妙な質問もあれこれ入れてみたが、流石のユーモアと機転を効かせた回答には舌を巻く。そしてチャーミングな物腰と受け答えは、彼と知己を得たこの15年以上なんら変わらないものだ。くだけた会話の中に別府史之の思考と性格、そして未来への提言までが顔を覗かせていると思う。

体がふたつあったら寿司職人になりたかった

小俣:今日はちょっと趣向を変えて、自転車のことだけでなく、いろんな視点でいろんな話を聞かせていただこうかと思います。いきなりですが、子供のころは何になりたかったですか?

別府:小学生の時からは自転車選手。変わってないね。

小俣:大人になったらXXXになりたいという最初の夢は?

別府:うーん、逆に自転車選手にならないんだったら、これをやりたいというのはあったね。お寿司屋さんになりたかったし、陸上の選手、水泳、バスケットもやりたかった。犠牲というと言葉は違うかもしれないけど、自転車をやるためにこういったことを制限してきたというのはあるね。

小俣:お寿司屋さんというのは、初めて聞きました。

別府:高校3年生の頃にお寿司屋さんでバイトしてて、それが楽しかったんだ(笑)。人生最初で最後のアルバイトだね。回転寿司だったけど、地元で獲れた新鮮なネタで、自分で握ったりもしていた。バックヤードからこっそり客席をのぞいて、『おっ、食べてる食べてる。それネタ大きいやつですよ』みたいな(笑)。体がふたつあったら寿司職人になりたかったなぁ。でもそのスキルがあるから、いまもヨーロッパで『自分、寿司握れますから』って豪語してる。

recommend post


interview

夢の続きを

2021年1月23日。女子プロロードレーサー、萩原麻由子のSNS上で突如として発表された引退の二文字。ジャパンカップで9連覇中の沖 美穂を阻んでの優勝、カタール・ドーハで開催されたアジア自転車競技選手権大会での日本人女子初優勝、ジロ・ローザでの日本人女子初のステージ優勝――。これまで数々の栄冠を手にしてきた萩原は、何を思い、引退を決意したのか。栄光と挫折。挑戦と苦悩。萩原麻由子の素顔に迫る。

2021.02.22

interview

冷静と情熱の間に――。高岡亮寛の自転車人生(前編)

U23世界選手権出場者、外資系金融機関のエリートサラリーマン、「Roppongi Express」のリーダーでありツール・ド・おきなわの覇者、そしてついには東京の目黒通り沿いに「RX BIKE」のオーナーに――。傍から見れば謎に包まれた人生を送る高岡亮寛さんは、一体何を目指し、どこへ向かっていくのだろうか。青年時代から親交のあるLa routeアドバイザーの吉本 司が、彼の自転車人生に迫る。

2020.05.30

column

タイムに願いを

ある日、ひょっこり安井の手元にやってきた2017モデルのタイム・サイロン。それを走らせながら、色んなことを考えた。その走りについて。タイムの個性と製品哲学について。そして、タイムのこれからについて―。これは評論ではない。タイムを愛する男が、サイロンと過ごした数か月間を記した散文である。

2020.04.24

interview

今までこの世になかったものを。スージーステム開発ストーリー(前編)

77度という絶妙な角度。35mmという狭いコラムクランプ幅。7.5mmオフセットしたハンドルセンター。今までなかったフォルムを持つスージーステムは、誰がどのようにして生み出したのか。開発者本人へのインタビューを通して、ステムといういち部品の立案から世に出るまでのストーリーをお届けする。

2020.09.14

interview

自転車メディアは死んだのか(前編)

『サイクルスポーツ』と『バイシクルクラブ』という、日本を代表する自転車雑誌2誌の編集長経験がある岩田淳雄さん(現バイシクルクラブ編集長)と、La routeメンバー3人による座談会。雑誌とは、メディアの役割とは、ジャーナリズムとは――。違った立ち位置にいる4名が、それぞれの視点で自転車メディアについて語る。

2020.06.29

column

メカニック小畑 の言いたい放題(Vol.1) ロードバイクにディスクブレーキは必要か?

なるしまフレンドの名メカニックにして、国内最高峰のJプロツアーに参戦する小畑 郁さん。なるしまフレンドの店頭で、レース集団の中で、日本のスポーツバイクシーンを見続けてきた小畑さんは、今どんなことを考えているのか。小畑×安井の対談でお届けする連載企画「メカニック小畑の言いたい放題」。第1回のテーマはディスクロード。リムブレーキとの性能差、構造上の問題点などを、メカニック目線&選手目線で包み隠さずお伝えする。

2020.11.23

impression

異端か、正統か(SPECIALIZED AETHOS 評論/番外編)

設計や性能だけでなく、コンセプトや立ち姿も含めて、もう一歩スペシャライズドのエートスというバイクの存在意義に踏み込みたい。エートス評論企画番外編では、編集長の安井とマーケティングやブランディング方面にも一家言あるアドバイザーの吉本の対談をお届けする。

2020.10.30