北海道の夜、恐怖のダウンヒル

青森を出発した青函フェリーは陸奥湾を抜け、津軽海峡を進んでいく。この挑戦で3度目のフェリー。
甲板から戻って二等広場で雑魚寝休憩を取る。揺れやエンジン音など気にもならない。慣れた手つきでスマホに目覚ましを掛け、5分で眠りについた。

2時間ほど寝ただろうか、かなり深く入眠できた感覚があった。
18時、夕日で染まった函館に到着した。参加者と雑談しながらエレベーターと階段で地下に降り自転車に戻る。ここで一日を終えたいが、まだ終わらない。サイコンの電源を入れ、GPSを呼び戻し、足早に降りたフェリーから、多くの車や参加者とともに走り出した。

青函フェリーの二等客室。雑魚寝が安らぎだった。
出発して4時間後、函館に到着。いざ北海道へ。
夕陽が出迎えてくれる。北海道はやっぱり寒かった。
函館市内。都会だが荒れた路面の洗礼を受ける。さらにこのあと、危機的な森町クライムダウンヒルが待っていた。

ん? 冷える? 冷えるな。気のせいか、本州とは空気が違う。
SURLY乗りの青年と函館のチェックポイント、ファミリーマートキラリス函館店まで一緒に走る。

「ここまっすぐですか?」
「右かもよ」
「あれ? 一本違くないですか?」
「まぁいいんじゃない?」
「そうですね、キューシートもフリー区間ですから大丈夫でしょう」

自分がGPSを使っているのにルートを間違える。うぅ、気まずい。北海道上陸から15分も経っていないのにド天然発揮。
30分ほど走り、函館のチェックポイントに到着。同じフェリーに乗った参加者がほぼ全員集まっていた。立ち聞きしていると、半分は函館に宿泊とのこと。自分は先を急がねばならない。今日の宿、森町ビジネスホテルフレスコはここからさらに45㎞先。グロスで考えると3時間近くかかる。あらためて14時の青森発に乗れたことがよかったと思った。

国道5号を北上。
八郎潟で会ったYさんが「森町? あそこの傾斜は緩いよ。そもそも北海道は凍結するから、急な坂道作っちゃダメなんですよ」と言っていたことを思い出す。
夕日はすっかり落ちた。さらに空気が冷たくなる。函館からひたすら暗闇の国道5号線を上る。北海道特有の幅広い対面道路。両側には住宅街。

予想はしていたが……困った。路面のいたるところが手のひら大に割れて、落とし穴状態になっている。地元茨城では想像もつかないが、北海道ではアスファルトにしみ込んだ水が凍結することで割れるらしい。

アルテグラのカーボンホイールにIRCのチューブレスタイヤ。悪いことは考えないようにしよう。上っているとHさんとSURLY青年が一緒に走っているのが見えた。

「今日はどこまでですか?」
「自分は八雲まで。彼は室蘭までだよ」とHさん。

この時、19時半。自分は21時宿泊到着予定だが、Hさんは八雲で23時、SURLY青年の室蘭着は夜中すぎの予定だという。タフさが半端ないと思えたと同時に、自分も彼らと同じ土俵で走り続けていることを痛感した。自分がパスすると彼らも付いてくる。
斜度は3%から5%。左右のペダルを繰り返し踏む。パワーは150Wから170Wに、170Wからときに200Wに。

北海道を進む。明るければ右に北海道駒ケ岳が展望できるはずだが、今は暗闇が自分を包む。
街灯と車のライト、割れた道路、そして荒い呼吸、肺に冷たい空気、荒い呼吸、荒い呼吸……ダンシング。気が付くとトンネルが見えた。トンネルをパスしていると「ゴオオォッ!」っと6輪トレーラーが猛スピードで脇を通過する。駒ケ岳裾の大沼・小沼を森町までダウンヒル開始。

トレーラーにあおられる。急に出現する落とし穴。「ダダッ」「ガガガッ!」とハンドルに衝撃が伝わる。後ろにいた2人の気配はもうない。スピードが乗る。右、左、ときにホップ。運命は神に任せ、暗闇を切り裂いていく。

記憶の薄い、長い長いダウンヒル。森町のコンビニの灯りが見えた。スッと入り、うなだれて大きく息を吸う。
「シャー」「キィ!」ブレーキ音が2人の到着を教えてくれる。会話も交わさず3人は店内に入った。夕食を調達した後も、ビジネスホテルまではさらに100mほど住宅街を抜けるダウンヒルだった。

到着したのは22時近く。ホテルの主はロビーでテレビを見て待っていてくれていた。
「今日はどこから来たんだっけ?」
「秋田能代スタートです」
「いやぁ、よかったね。夜の北海道は結構危険だよ」
と苦笑いをもらった。

フェリーが入っているので実走行はそれほどでもなかったが、長い一日だった。盛大に疲れ、体は泥のようだった。充電器を接続し、天気と風向きを調べ、体を引きずり湯船につかる。洗濯はできずに消臭剤を掛けただけだった。
ただ、この日のベッドは、まるで母鳥の羽毛と柔らかな葉で作られた巣のよう。その暖かさに、生き延びた喜びを感じた。

9日目、北海道の桜に感じ入る

北海道2日目、4時。朝の準備をして、主のいないカウンターに、鍵をコトンと静かに置いて入口を開ける。パールイズミの冬ジャージでも肩がブルっと震えた。眠気が残る中、この儀式もあと2回で終わりになる。
今日はやや遅めのスタート。前日が長丁場になることを見込んで、この日の走行距離は千歳までの250km以下に抑えていた。

早朝の森町をスタートする。この挑戦の終わりまで、あと2日。記事には書いていないが、濃霧に襲われる場面もあった。

この日の困難は風。内浦湾をぐるっと一周し、室蘭から海岸線を東に進み、苫小牧から北に進路を変えて千歳に向かうのだが、今日は東寄りの風が吹く予定で、行程の多くで向かい風が予想された。
予想は不安しか生まない状況だったので、何も考えずにペダルを回し始める。昨日下りてきた100mの坂をフー、フー、と上げ過ぎないペースで上る。

疲れて嫌なはずなのに、国道まで上り切ると気持ちよかった。こんなところまで来て、坂が好きなようである。
コンビニで朝ご飯を補給したあと、海岸沿いまで軽く下り、以後はひたすら湾沿いにルーベを進める。単独の北海道での自転車。ワイワイする仲間もいない中、ゆっくりとペダルを回している。海産物の直売所が所々に見られる以外は、人の気配もない。
誰にも理解されずひたすら孤独な気持ちと、仲間や家族から応援されている感覚が複雑に絡み合い、不安定な精神状態で湾を眺め進む。

長万部町を過ぎ、少し海岸線を離れる。進路は東。風が気になる。
国道沿いに懐かしい電話ボックス。北海道らしいサイロの見える風景に、足元にはフキノトウ。ここにはまだ春が来たばかり。ペダルを一旦休め、上着を脱ぐ。
何も考えずにフキノトウを見ていたら、精神状態も少し落ち着いてきていた。自分にはたどり着きたい人生がある。ストレッチして自転車にまたがる。

豊浦、洞爺湖と進み、伊達市。
あれ? ソメイヨシノ?
街の河川に植え込まれた桜並木に出会う。よく言われる「しばし目を奪われる」という表現ではなく、自らの心そのものが奪われ溶け込んでいくような感覚。
10分、20分と時間が通り過ぎる。
息子君は元気でやっているかな……。
ふわりと舞い散った花弁が川に落ちていった。

陽が上がり、冬ジャージを脱ぐ。足元に生えるフキノトウが、心を落ち着かせてくれた。
北海道らしい景色のなかに、ぽつんと懐かしい電話ボックス。
室蘭前でソメイヨシノが出迎えてくれる。見慣れているはずだが、感銘を受ける。

進路は南東、住宅地は町になり、都市になり、室蘭。
交通量も多くなった道を1時間30分、30kmほど走ると室蘭のチェックポイントに到着。朝から7時間は走っている。4、5人の参加者が目に入った。そのなかに新潟から山形で一緒になったSさんも居られた。声を掛け、風向きとログの話をしてバイバイする。

室蘭から苫小牧までやや南東の風。進路は北東なので横風に変わる。単騎で向かうことを考え、お弁当をしっかり食べて、オレンジジュースを飲みほした。
国道235号は、苫小牧からフェリーが出ている関係と、えりも町と千歳市を結ぶ主要道路なので、大型車やトレーラーが走る。

あれ? 進む? 横風のはずなのに、なぜか進む。何が起こっているか分からなかった。ただペダルが軽快だ。車が風を生んでいるのか? 苫小牧までまっすぐな道を、ひたすら自分のペースで回していった。
景色は目に入らない。ただただ道路と車を見ていただけだった。
3時間30分、70kmの距離。気が付いたときには苫小牧まで来ていた。心地よい疲れが時間を忘れさせてくれていた。

苫小牧から北に進路を変え、千歳を目指す。今日の宿まであと少し。
しかし道の状況は変わらずよくなかった。森町周辺と同じく、主要道路のために路面がいたるところで痛んでいた。もちろん落とし穴も多い。追い風気味になったが、気を抜かずに進む。

大きな千歳空港が見えてきた。電車の高架橋、そして本日宿泊のJRイン千歳ホテル。格安の7,000円素泊まり。ホテルに入る前に丸亀製麺にてかなり早い夕食。
きれいなホテルと受付嬢に、日本縦断の服装と装備は場違いだった。緊張しながら自転車を部屋に持ち込ませてもらっている。チェーンオイルなんかつけてしまったら一大事だ!

17時には千歳に着いたので少し観光しようとも思ったが、そうこうしているうちに雨がぱらつき始め、出足がくじかれてしまった。早めの到着によって難を逃れた。洗濯機を回しながら、休養をとる。ランドリー待ちの多目的ロビーがきれいで漫画も充実。リクライニングシートにオットマン、洗濯待ちで寝てしまいそうだった。雨は今夜中降り続いて早朝に上がり、北向きの強風との予報だった。

ローソン室蘭東町二丁目店にてフォトチェック。ローソンのハンバーグ弁当は3度ほど食べていると思う。
苫小牧。どこまでもまっすぐ続く道。
きれいすぎるJRイン千歳ホテル。自転車を持ち込むのに緊張した。
千歳の夜。外は冷たい雨。洗濯待ちで寝落ちしそうになる。

10日目、低体温症の恐怖

北海道3日目、雨をかわすために5時起き・6時スタートにした。この決断がよかったようで、この日もっと早くにスタートした参加者は明け方の雨に濡れてトラブルが多発していた様子だった。それでも空にはときに曇が広がる。

北海道3日目の朝。分厚い雲。雨に怯える。

千歳から新十津川駅のチェックポイントを目指し進む。
前日にメールがランドヌ東京から直接入り、「新十津川駅跡が取り壊され跡形もないらしいので、近隣の居酒屋と病院がフォトチェックポイントとなった」とのことだった。直接の連絡は分かりやすい。

千歳周辺の道路はまたしてもひび割れや落とし穴があり、森町での夜間ダウンヒルに比べれば明るくて安全だが、何ぶん疲労で正常な視界もままならない。言っているそばから「ガタッ!」「おおおっ!」と2回ほどタイヤを穴に落とし焦ってしまった。

千歳を抜けると牧草地・農地が大きく広がりサイロが目に入る。神社や小学校もたくさんあるがどれも規模が大きく土地が広い。長沼町、岩見沢市、美唄、奈井江町で石狩川を渡り浦臼町、そして新十津川町。

かなり風が強い。日本海から吹き飛んでくる西風、10m/s。常に側面に当たり、なかなか進まない。石狩川を渡る際は西に一旦方角を変えなくてはならず、まともな向かい風になり、エアロノバに肘を置き、レックマウントにしがみつき、TTポジションで進まざるを得なくなった。
岩見沢周辺で曇天が悪天に変わり、雨が本降りになった。初日の鹿児島の雨によってウエアの撥水効果は切れている。まさかのゴール2日前にリタイヤかと緊張したが、幸運にも雨雲が逸れ、雨が上がった。

強い風にあおられフラフラしながら新十津川に到着。空知中央病院がチェックポイントになったので、フォトチェックカードとともに写真を撮る。どこか親近感が湧く病院。近くにコンビニがあり、ちょうど正午になったので食事休憩に入る。ほっとするイートインには、病院の患者様も数名いらっしゃっていた。

函館や室蘭付近とは少しは違う雰囲気。強風と雨と奮闘しながら北上し、チェックポイントを目指す。
石狩川を渡る。撮影のためバイクを立てかけていたら、凄い風で倒れてしまった。この後、猛烈な向かい風と雨に見舞われる。
急遽チェックポイントとなった空知中央病院でフォトチェック。

晴れ渡った。日差しは暖かいが空気は冷たい。依然として進路は北。留萌という日本海沿いの町を目指す。新十津川からコンビニなどの補給所もなく、西より8~10m/sの強風が体温を奪い行く手を阻む。

道の駅、サンフラワーパーク北竜のトイレに入ると、なんと「暖房」がついていた!
どこからか美味しいそうなパンの匂いが……フラフラと焼きたてパン屋に吸い込まれていく。冷たい風の中、ほっと出来る空間に、4人のおばちゃんと2人のおじいさん。
「いらっしゃいませー」
北の大地なのに訛りが少ない。ここに近い秋田はほぼ何を言っているか分からなかったのに。

「何がオススメですかぁ?」
「えーとね、このパンとか……1人でどこから来たのよ?」
「鹿児島からです」
「はぁ? 自転車で???」
「そうなんですよ。日本縦断の走行会で」
「たまげるねぇ! コーヒー飲んでいきな! ほらほらココに座って!」

店内全員笑い声をあげている。ここから先は留萌おろか天塩まで絶望的に補給ポイントが少ないこと、留萌から先は時折潮風が道路まで飛んでくることを教えてもらった。

進路は北西、国道233号に入り山道になった。ここで過酷すぎて変な現象が起きる。5%くらいの上りでは峠がちょうど風よけになり、下りになると風よけがなくなって強風が吹き付け、上りよりも進まない。嘘のような本当の話。楽なところがなく、苦しみ続けるしかない長い長い道のりだった。

湿地帯ではマメ科と思われる見慣れないきれいな青い花が出迎えてくれる。調べたらエゾエンゴサクと言うそうだ。また黄色の鮮やかな花を付けるエゾノリュウキンカ(蝦夷立金花)、そして純白のミズバショウ。
辛く立ちはだかる壁のような向かい風のなか、可憐なる花たちは自分に何を問いかけているのか。自分の人生と家族のことを、苦しみながら考えてみた。

留萌に向かう途中。北の地に咲くエゾエンゴサクが、何かを語っていた。

やっと国道233号が終わる。しかしこれから走る国道239号、日本海オロロンラインは留萌、小平、苫前、羽幌、初山別、遠別、天塩と、残り100kmの行程。現在時刻が16時だったので、夜間走行確実となった。

留萌から先は一旦追い風が吹いたものの10kmほど行ったところで結局6~8m/sの横風。233号と同じく地獄の走行となった。風でこんなに時間が取られるとは……少し雨に降られても出発時間を2時間ほど早めればよかったと後悔している。

走っているとやっぱり補給ポイントがない。人も居ない。1時間ほどして道の駅おびら鰊番屋に到着。読者の方々から「あるじゃねーか」とツッコミが入りそうだが、ここまでの1時間でここの1カ所だけ。しかも売店は閉まっているので、北竜で買ったかぼちゃパンを食べて感謝しながら元気を戻す。夕暮れの日本海をずっと見ていたかったが、写真を残して先を急いだ。

道の駅おびら鰊番屋で、夕暮れの日本海を見る。オロロンラインは必死すぎて写真撮れませんでした。すいません。

この先80kmはコンビニが5店舗しかない。しかもそのうち2カ所は2店舗が重なっているため、実質3カ所。また公共交通機関はバスしかない。時刻表は見なかったが、夕方1回だけすれ違った気がする。
雲が広がって周囲に光がなくなり、少しすると雨がぱらついてきた。風は変わらず容赦なく吹き抜け、日が差さなくなったのでどんどん体温を奪われる。冬用のパールイズミのグローブは水を通してしまうので、留萌のホームセンターで購入したテムレスグローブに変える。
周囲を見渡すと、北限らしくバス停が山小屋のようなプレハブだった。そこに緊急避難してもいいかもしれないが、運動を止めることで体温が生産されなくなる。全身濡れているので気温が低くなれば小屋の中でも体温は奪われる(経験あり)。この気温での浸水は身体の一部でも大敵だ。低体温でのリタイヤが頭をよぎった。

横風で体力は根こそぎなくなり、意識が朦朧としてきた。股ずれもひどく痛む。北竜のパンも底をついた。暗闇が広がってきたが、星は全く見えず曇天。ウエアの表面はしっとり濡れ始めている。しかし雨はパラつく程度で本降りになってはいなかった。

遠別まで来た。角にセイコーマート遠別本町店がある。GPSは右に曲がる指示。まっすぐな経路のはずだが……と一瞬混乱。一旦止まることとした。
冷静になってセイコーマートで甘酒を2本飲み干したが、体の冷えは解消されない。宿には遅れることを連絡していたが、「本当に自分は大丈夫なのか?」と不安に襲われ、震え始めた体を落ち着かせるのに精一杯だった。

そこからの20kmは記憶がほぼない。濡れたウエアに震える体、浅く早い呼吸と、ほとんど出ていない出力。暗闇の中ペダルを回し、備わった動物的直感で路上の穴やひび割れをかわしていく。遠くオレンジの街灯が見えたときのことだけ覚えている。横風が吹き荒れる、本当に長い時間だった。

GPSが左に曲がる指示。長い長い過酷なライドが終わりを告げた。弱々しく左を向くと、薄明りの小さな町が見えた。指示に従って左に舵を切り、なだらかな坂を下りる。
21時30分、本日の宿泊地、天塩温泉夕映えに到着。ブルべでは、普通ここには宿をとらない。宗谷岬ゴールまでたった100㎞地点だからだ。

「心配してました」

フロントマンは外国の若い方。この第一声から日本語が堪能で紳士的な印象を受けた。体のフラフラが止まらない。とりあえず自転車置き場に案内してもらって……あれ? パナチタンがある? 疑問を抱きながらも部屋を案内してもらい、水分だけ補給し一旦温泉へ。すると……。

「あれ? Sさん?」
「あれ? 激坂さん? 普通ここに宿はとらないよ!」

驚きながら大いに笑った。いい温泉で温まり、少し息を吹き返した。あらためてフロントに行き、自転車の置き場所や充電の仕方を聞く。フロントマンの方の名前はボウさん。

「故郷はどちらですか?」
「私はミャンマーからですよ」

遠い天塩に、さらに遠いミャンマーから働きに来ている。人生の時間と距離、そして人との繋がりが何かを考えさせられる。ボウさんと話をしながらルーベの充電コードを繋いだ。

11日目、長い長い挑戦が終わる

最終日、10時スタート、残り100㎞。地元のカスミイチと同じ。前日にSさんと約束をして一緒にスタートすることにした。セイコーマートで朝食を食べているとSさんが来る。軽く挨拶をして走り出す。

今日は、国道232号、次に40号で北上し、ミルクラインを経て238号で宗谷岬にたどり着くという行程。スタートしてすぐ風速10m/sの強風。後で地元の人に聞いたところ、稚内は常に強風が吹いているらしい。関東じゃありえない体験だった。
232号から40号に進路を変えるとき、「あーっ!」と後方からSさんの叫び声。なんだと思ったら路側帯が急に狭くなり、目の前に縁石が立ちはだかる。わっ! と右に急ハンドルを切って何とかかわした。危ない……。自分の注意欠陥性には本当に嫌気がさす。

ここまで横風だが、少し曲がると追い風に変わったりもして、昨日よりは軽快に感じた。湿地帯には時折ミズバショウも顔を出してくれている。やがて40号からミルクラインに向かって右に進路を変える。追い風が入る中、10%ほどの坂を2人で立ち漕ぎしながら、上ったり下ったりをしてパスしていった。奥には熊笹の丘と住宅街、目の前に風力発電、見晴らしがよく写真に収める。

ミルクロードとSさん。

股ズレは痛いがSさんが一緒のおかげで比較的気分が良い。稚内市をかわし国道238号に合流。東に進路を変え、強い追い風に乗って宗谷岬へ。
「この先はロシアか」と、遠い水平線を見つめる。通りの交通標識にはロシア語が併記。実際に稚内港からハートランドフェリーにてロシア・コルサコフまでの便が出ている。

追い風に乗り、道を進む。最北端のコンビニ、セイコーマートとみいそ店の横を通り、今までの思いを巡らせながらゴールに向かっている。

Sさんの背中を見ながら。
先頭交代してからは広がる景色を見ながら。

左手に浅瀬を抱える海と、透き通る空気と、青空。もう路面には恐れるヒビ割れや落とし穴などはなかった。強い追い風の中、右に緩くカーブすると、遠くに青い三角屋根の建物。

「ゴールしたときには盛大に男泣きしてやる!」と決めていたが、なぜか涙は出なかった。
キィ……とブレーキをかけ、脚を止めた。家族もなく、仲間もなく、祝福するものも居なかった。
10日と8時間10分。

長い長い自分だけの2,700㎞を、走り終えた。

自転車人生はやめられない

どことなく現実味がない。何度か諦めそうになった。本当に自分が2,700㎞の達成をもぎ取れるとは思ってもいなかった。
Sさんは満足そうな表情でゴールしていた。「フォトチェック忘れたらまずいですね」と三角屋根の青い建物をバックに撮影した後、お土産屋さんで家族分の熊鈴を買っていた(笑)。

宗谷岬の記念碑前で撮影するときは、発売当初から愛飲しているタリーズのエスプレッソ(緑缶)を飲むことに決めており、今朝から探していたのだが、見つからなかった。諦めていたが、奇跡的に宗谷の自販機で売っていた! 運命に感謝し、記念碑の前で座り込み、プルタブを開けひと口。

旨すぎて何も言えない。自分だけの世界に包まれた。

青い三角屋根の、日本最北端の土産物屋「柏屋」の前で、最後のフォトチェック。カードに記載された出発日時は4月29日。柏屋の表示は5月9日。
あまりに有名な宗谷岬記念碑前で。タリーズの緑缶が最高に美味しかった。空が綺麗。

今日はこれから稚内で宿泊し、明日飛行機で帰る予定。ここまで追い風で来ていたので、稚内市内に戻るには風速10m/sの向かい風のなか30㎞を走らなければならない。

食堂「最北端」でホタテラーメンをしっかり食べ、稚内空港から飛び立つ飛行機を横目に、油断せずに稚内市内に戻った。まるで高山から下山する気分だった。

稚内に戻ってからも、Sさんの宿泊地が自分の宿(ゲストハウス・モシリパ)と隣合わせだったりとミラクルが続く。ロビーにて一緒にリモートブルべカードの申請をしてから、市内に出て、食堂よしおかで夕食を兼ねた打ち上げを行った。
宗八カレイの焼き物、北の海の刺身の盛り合わせ、ホッケ焼。Sさんは生ビール、自分はノンアルコールビール。

稚内市内でSさんとささやかな打ち上げ。やっとコンビニとファストフードから開放される。

何も知らずに一緒に走ってしまったが、Sさんは実はPBP(パリ~ブレスト~パリ)などの海外ブルべの走破経験もあるすごい方だった。

「PBP、走らないのですか? 来年開催ですよ」
「いやぁ、言葉が話せないんですよ~」

と断ってしまったが、日本での最長ブルべをゴールしてしまったということは、次は非公認の日本一周をするか、海外に行かなくてはならないことを意味していた。
「今回の縦断は3度目です。5年前の前回も完走しています」とSさん。やはりオーラを察知した自分は正しかった。国内の長距離ブルべ、残すは8月の北海道1300と9月の岡山1300のみ。今回はかなり無理をして縦断に出たので、残念ながらそれらに参加は出来ないと思われた。

自分には、ブルべの他にも、届きたい、たどり着きたい自転車観がある。もしかするとベクトルがそちらに向かうかもしれない。歳をとっても、まだまだ自転車人生はやめられないように思えた。

ゲストハウス・モシリパに戻ってきた。主人にあいさつをして、自転車の保管場所や宿のルールを教わり、支払いを済ませた。モシリパのバイトの男の子は茨城出身で苫小牧までフェリーで来て、稚内までスーパーカブで走ってきたとのこと。また、主の奥さんも茨城出身。まさか稚内まで来て茨城の高校の話で盛り上がるとは思っていなかった。

今回の縦断では多くの人に触れあってきた。もちろん自転車関係の人ばかりではない。ホテルの人、コンビニの店員さん、通行人、通り過ぎる車のドライバー。それぞれ空気が違い、どう接すれば良いのかも考えさせられた。自分の人生の流れのなかで、会っては過ぎ、会っては過ぎを繰り返す。
それが何を意味するのか、僕には分かっていない。ときに共通の出来事から知人になり、協力して人生を共に歩いていく。大きな海流のなかの群れのように、手をつなぎ泳いでいく。最後に自分は誰と手を取っているのだろう。自分が55歳の時、息子君は22歳。シロナガスクジラのように、この道をこの子と一緒に走るのだろうか。

夜の稚内港、空を見上げると満天の星が瞬いている。亡き父に無事にゴールしたことを報告すると頬に涙が伝った。

エピローグ

稚内から羽田まではあっという間だった。
誰も居ない自宅に着くと、つぼみだった紫蘭とクレマチスが色鮮やかに咲き、そして植え込みの木々が若草色から新緑になっていた。
13日の間に季節が進んでいた。

庭のガーデンチェアでのんびりしていると、義母の車が止まり、中からランドセルを背負った息子君が走り出し、腕の中に飛び込んできた。

ギューをして、耳元で「おかえりなさい」。
不思議な子だ。なんで自分の気持ちを汲んでくれるのだろうか。

震える声で「無事に帰ってきたよ」と言うと、すべてが終了した。
これで挑戦が終わったんだ。
しばらく離れられなかった。

 


編集後記

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